今度は出版社しばりで本を選ぶ
森博嗣を読みつくして、、、ジェイン・オースティンは温存して、、、
その後今度は出版社縛りで、ナチュラルスピリットの本を集中的に読んでいます。
これまで読んできたスピ本で手元に置いておきたいなあと思う本の多くが、結構な率でナチュラルスピリットの本でした。
ナチュラルスピリットの本は「流行り感」があまり無く、かといって古臭くもなく、永くいつまでも読めてその都度気づきが得られるような気がします。
「すでに愛の中にある」大和田菜穂著
それで、ノンデュアリティについて。
私自身、ノンデュアリティとはなにか、よく分かっていないのでうまく説明できません。
言葉の説明としてはノンデュアリティというのは日本語にすると「非二元」「非二元論」ということで、エネルギーを二つに分割しないで、一つのものとみるような考え方です。
例えばこの世に善と悪は無いとか。
悪とされているものも、立場が変わると善になったりとかは分かる気がします。
しかし自分が決めたことを日々実行しているはずなのに、自由意志と選択というものは全く存在しないというのはよくわかりません。
思考はただ浮かんできただけで、誰も思考を作り出してはいない?
苦しんでいる誰かは居なくて、ライフだけがある?
動物にも植物にも、物にもライフはあり、痛みを感じることもあるが苦しみは感じない?
ノンデュアリティに期待をしてはいけない
ノンデュアリティを理解しても、人生が特に楽になることは無いようです。
私たちが本を読むのは分かりたいから、理解したいからという、求める気持ちがあるからで、本の中に答えとか、ヒントになるものを私たちは探しているのです。
でもそうした図式がもう過去の在り方なのではないかと問われているような気がしてきました。
原因と結果を分けること自体がもう古い?
とにかく、ノンデュアリティを従来のやり方で追及しても、欲しがっているような人生の問題への具体的な答えは何ら得られないみたい(しかし、そうしたものを私は求めていたのだということには気づけた)。
しかしどういう作用によるものかよくわかりませんが、ずっと居座っていた苦しみがなぜか薄らいでいって、何だか楽しくなってくる、そんなことも時にはあるのかもしれません。
「すでに目覚めている」ネイサン・ギル著
大和田菜穂の本を「よく分からないなあ~」と思いつつ読んで、その後、ネイサン・ギルの「すでに目覚めている」を読んだら、「大和田菜穂はこういうことを説明していたのかも」とおぼろげに見えてきました。
ネイサン・ギルによって大和田菜穂をわずかに理解できたような気がしました。
2冊並べるとネイサン・ギルの方が言葉足らずに思えます。
ところでこの本、初めて読んだつもりでいましたが、先日処分した古いダイアリーにはこの本を読んだ記録がありました!とっくの昔に読んでいたのに、全く覚えていなかった。そしてその記録がちょうど今蘇ったというのもささやかな驚きです。
「ただそのままでいるための超簡約指南」J・ジェニファー・マシューズ著
その後J・ジェニファー・マシューズの「ただそのままでいるための超簡約指南」を読んだら、分かりかけていたものが逆に遠のいたように感じました。
「問題を解決するのとは違う心の働き」を説いていたり、「木を見ていると気づき、目覚めは起こりやすいかもしれない」など、ヒントはいくつかあるのですが。
ところでJ・ジェニファー・マシューズはこの本を書いただけで市井に沈み、カウンセラーのような仕事はしつつも、自分の名を冠したワークショップや個人セッションをなどの「有名人的活動」を一切していないという点には興味を覚えました。
これぞまさに「私は居ない」ですね。
「今、永遠であること」フランシス著
さらにフランシスの「今、永遠であること」を読んだら、どこがどうということも無いのですが全体的に「くだらないな~」と感じてしまって、しばらくノンデュアリティから離脱しようと思いました!
本の良し悪しではなく、自分にとってどうだったかという感覚的な感想ですので、あしからず。
別の視点がある
私は居るのに私はいない。
私の意思はない。私の意思によってできることはなにもない。
人に説明できないし、人に理解してもらいたいわけではないのだけれど、何となく、本の言ってることがわかった瞬間があったような気がしました。
いつも見ているものがちょっと違って見えるようなことって、誰にでも時々あるんじゃないかな。
ノンデュアリティに出口は無く、なんの救いも無いのですが、何かを垣間見たような気がして嬉しかったという、読書体験を得ました。
もしかして、ちらっと見てさっと手放すのがノンデュアリティの正しい取説かも?