捨てるまでは何度も蒸し返して悩むのに、捨ててしまうとなかったのが当たり前になっていることは何かに似ている

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並木動画をBGMに

最近、ときどきですが、並木良和動画をBGMのようにして、何かの作業をすることがあります。

一頃はメモを片手に真剣に聴いていましたが、それをやっているときりがない。

それに一通り聴いたら、結局は同じことを何度も何度も繰り返しているだけなのです。

これはディスっているのではなくて、同じ内容を何度でも違う角度から新たな気分で聞かせる話術は素晴らしいものだと思います。

だからこちらもいったん忘れて何度も何度も聞けば良いのです。

わざと苦しみを味わいたがっているということ

それで最近聴いていてはたと思ったのが、ものを手放す時の胸を締め付けられるような切ない気持ちについて。

いったんごみ袋に入れたのに、また取り出してしまう動きについて、その時の逆向きの、しかも両方ともの強い動きについて。

もう捨てたいのだけれどスパッと捨てるのが怖いことについて。

これは、不自由というものを体験したくてこの世界に生まれてきたわたし達が、しっかり不自由を体験できるように、自由な自分を忘れるために、しっかりしっかり掛けた枷と同じ性質らしいということ。

あえて逆向きにしている力の作用。

「苦しみ」を味わってみよう、楽しんでみよう、試してみようとこの世にやってくる時に、苦しみなんてないことをいったん忘れなくてはならなくて、再三自分に言い聞かせただけのこと。

鬼は目隠しをしないといけないという単なるゲームのルール。

一生をかけて楽しもうとしてやって来たから、それなりにルールをしっかり守っているだけなのです。

だからどちらを選んでも良くて、スパッと捨てても実は何のダメージもないのだが表面上は取り返しのつかないことのような気がしてしまう。

捨てるか捨てないかのどちらか一方が正しいのではなくて、どちらが正しいかで悩んで自分の心が窮屈になっていることの方が大きな問題であるということなのです。

ぱっとわかったことなのに言葉にしようとすると何とくどくなることよ。

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