西暦2000年問題とは?
あと数年で西暦2000年を迎えるというときに、コンピューターが2000年を1900年と読み替えて誤作動を起こすかもしれない、そこから一体どんな影響があるか計り知れない、ということが言われ出しました。
電気・ガス・水道といったライフライン、金融機関、交通機関、警察消防、医療機関など、コンピューターのプログラムが関わるもの全般の混乱が予想されるとして、非常災害時と同等の備えをしておきましょうと、政府としても国民に対して注意喚起を促したのです。
準備万端の人
いま私が、ふと思い出すのは、1999年年末の新聞に掲載されていた、食料備蓄を万全にしたという人のことです。
田舎に住んで、飲料水、食料、燃料などあらゆる準備をしていて、その人は何の憂いも無いようです。
庭のドラム缶にサツマイモをぎっしりと詰めて、その横で笑顔の写真が載っていました。
「これでもう何が起こっても大丈夫!」って言えるのはすごいことだと思いました。
私も当時は西暦2000年問題は気になっていたけれど、一体どこまで備蓄すれば自分の気が済むのか目安が分からず、逆にほとんど何もしていないような状態でした。
何も起こらなかったけど
自宅ではもともと、飲料水については10L入るタンクを人数分備えてありました。
あとは懐中電灯、ろうそく、少々の乾パン・アルファ米など。日持ちする防災専用食料は3日分もなかったかも。
1か月の家計では1か月分の食費分の金額しかないので、数週間~数か月分を余計に買うには貯金を崩さなければいけませんが、今思えば私はそこまでする気にはならなかったのです。
当時はうちに余計なお金はなかったから、余計なことに迷わずに済んだとも言えましょう。
それでも、1999年の大晦日はどきどきしてテレビを見ていましたが、ありがたいことに予想されたようなパニックは起こらなかったのでした。
実は何もなかったわけではない?
心配したあげくに「な~んだ」で終わったのでめでたしめでたしです。
しかしその後10年くらいして見たとあるトンデモ動画によれば、「な~んだ」って思っているのは「おめでたい」のではないか?って思ったりもしました。
2000年を無事通過できたのは実は本当にぎりぎりのシビアな状況だったのかもしれない?
不真面目な私にはそれ以上追求する気がなく、確かめようもありませんが。(まさにSFの世界の話だと思ってください)
でも教訓として、「何も起こらないだろう、きっと大丈夫だ」と思考停止してはいけないかなって思います。
未来の自分が困らないような備えをしておくことはやはり必要だと思います。
「幸せのスピリーマン」
最近、西暦2000年問題を振り返っていたら「幸せのスピリーマン」(はづき虹映・かんき出版)という漫画を発見しました。
2011年刊行。当時のスピリチュアルの位置づけに時代を感じさせる漫画です。
その中の「第5話 2000年問題で仙人へ」というお話が、今の自分の心境に似ていました。
2000年問題に対応するために田舎へ引越ししようとしたり、仕事も減らしていって、飲料水、非常持ち出し袋などをばっちり備えて、その日を迎えた主人公。
「トラブルを回避しようと行動したつもりが、いつの間にか2000年問題が起こることを強く願うようになっていた。そうすれば自分の正しさを証明できるから。」
カレン・キングストンも同じことを言っている
それは、カレン・キングストンの本に書かれていることと同じでしたが、鏡に映すように言い回しが逆になったことで私は新たな理解を得ました。(「ガラクタ捨てれば自分が見える」カレン・キングストン・小学館文庫)
「いざという時のために」ものを溜めこむのは、自分の未来に信頼を置いていないことです。あなたの未来はあなたの想念で作るもの。ですから捨てたら必要になるのではないかと心配をすれば、それがどんな些細なものであれ、全くその通りの状況に陥るのです。
「ガラクタ捨てれば自分が見える」ー「第6章 ひとはなぜ『ガラクタ』を溜めるのか」ー「いざという時のために溜めこんだ」
素晴らしいのは、処分したものが突然必要になるという状況は自分が作りだしていることに気づくと、そのようなことが起きなくなるという事実です。
「ガラクタ捨てれば自分が見える」ー「第6章 ひとはなぜ『ガラクタ』を溜めるのか」ー「いざという時のために溜めこんだ」
どれほどあなたに欲しいものがあろうとも、絶対にこれで充分だと満足することはありません。何か買ったらその途端に、何か「必要な」ものが出てくるのです。
「ガラクタ捨てれば自分が見える」ー「第6章 ひとはなぜ『ガラクタ』を溜めるのか」ー「安心感」
ところで、昔ながらの缶入り乾パンってまだ売っているんですね。やっと食べ切ったと思っていたのに同居人がまた買ってきていました。
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