「いきなり生きる」練習…過去を手放す恐れからの解放

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メモせずにはいられない

私は日記を書かずにいられない人間で、さらに日記に「清書」する以前に、反故紙の裏などにメモすらしています。

いつで出掛けたか、いつ食事をしたか、あやふやだと後で日記に書き入れるときにもやもやするので書き留めておくのです。

いちいち覚えておくほどのことでもないからメモしておくのですが、メモするほどのこともないなあとも自分で思います。

一日の終わりに「清書」をしたらメモは破って捨てるので、ちょこっとすっきりします。

食事の時間と内容は、むかしむかしのダイエットの効果を上げるための名残ですが、記録をし始めるとそのことが目的になってしまいました。

記録は確かになかなか面白いもので、毎日変化がないようでいて、数年前と今では大きく変化していることもしばしば。

実際、この春からはこれまで食べていなかったオートミールが主食に置き換わっていたりするのですから。

日記を書かないタイプの人

私はこのように日記を書かずにいられない人間なのですが、同居人はそうした記録、メモのようなものは一切残さない暮らし方をしています。

テレビが好きで、休日は朝から晩までテレビでスポーツを追っています。

新聞も一般紙とスポーツ誌の2誌もとっていますが、一度目を通したらそれっきりで、溜まったら回収に出しています。

切り抜きもしないので身辺に紙類が溜まりません。

テレビは観て終わり、新聞は読んで終わりの消費型生活です。

その資料を基に何にか考えるとか書くとかの生産型生活を、私ならしたくなりますが、個人の自由です。

でも資料も、メモも、原稿も残らない暮らしは、うらやましくさえあります。

残しておきたくないもの

かなり昔から日記を書いていましたが、現存するのは2012年からで、それ以前のものは捨てました。

でも前回捨ててから、もう10冊も溜まっているわけです。

日記類は私にとってさほど大事なものではないはずですが、これがまたなかなか捨てられません。

日記をはじめとして、どうでもよいメモ、記録、写真、画像などをまだまだたくさん持っていますが、「残して死にたくない」とは思います。

十代の頃から、そんな日記を残す不自由さを感じていて、中学高校の6年間くらいは日記を書かない生活を意識的にしていました。

もちろんそれで何も問題無く生きることはできました。

いきなり生きる

小説や映画の登場人物の大方も日記を書くこともなく、いきなり生きています。

朝起きてコーヒーを淹れていたら、誰かから電話がかかってきたりして、そのことで慌てて着替えて家を出たとか、お話が始まります。

メモしなくても必要なことは覚えているので、日記がなくても何も困りません。

私も実際のところ、日記がなくてもたいして困りません。

1年したらその日記帳は仕舞い込まれます。2年くらいは過去を振り返って調べることもありますが、5年以上前の日記は無いと同じ、捨てても差し支えないでしょうね。

そんなふうに一度でも考えていたら、5年後には日記をつけなくなっているかもしれません。

どんどん手ぶらになれたら楽だなあと思います。

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